スタディツアー 感想(三田 林太郎氏)

この旅は私たち夫婦のほかに大学の友人である安藤陸男くん、高校で歴史を教えていらっしゃる中山信一先生、教え子で大学生の三田雅晴さんの5人で参加しました。今回行く決心ができたのは、やはりきっかけがないと行かないようなところで、しかし一度は行ってみたいところであったと言うことです。
 エルサレムはホテルのエアコンが全館でぶっ壊れ、最後までなおしてくれませんでした。夜中でも汗がダクダクで、標高が700m以上と高くて明け方はそれなりに涼しいので、すっかり風邪をひいてしまい、熱がある中で毎日歩くこととなりました。おかげでトルコのカゼ薬は結構強力と言うことがわかりました。
 旧市街は歩いて十分回れる広さです。3宗教の聖地がその中にひしめき、イエスがローマ帝国の総督、ピラトの官邸で行われた裁判で有罪とされてから十字架を背負って歩く、ゴルゴダへの道を実際にたどることができます。たくさんの教会が点在し、どこも落ち着いて深い陰影に満ちているように思いました。イエスが磔刑に処せられ、お墓もある聖墳墓教会は見応えがありました。中山先生によるとこの教会の鍵は何と代々イスラム教徒が管理していると言うことで不安定な事情の中、絶妙なバランスを保つやり方だと思いました。
 食べ物はいつも豆がペースト状になっているホムスが出され、サラダも結構食べる機会がありました。カミさんにとってはビネガー(酢)がちょっときつかったようです。アルメニアのスジョーク(スパイシーで香辛料のきいた薄いビーフをパンに挟んだもの)も結構いけました。
 嘆きの壁は一時はユダヤ人は壁に近づくこともできなかったらしいですが、1900年にも及ぶ悲願が叶い、今はユダヤの人たちが自由に祈ることができます。中山先生からは「ユダヤ人でユダヤ教徒でない人もいる。ユダヤ人はイスラエル国内、国外ともに500万人以上いる。いつか国に戻ろうとさまようことがメンタリティなので、“イスラエル”という帰国するところができてしまうことに反発するという複雑な心情の人もいる。」と後で教えてもらいました。
 エルサレムの暑さは過酷でそのせいか街の色彩、様子もコントラストが非常に強いように感じました。カミさんのリュックからいつの間にかポーチが抜き取られ、歩いてもいない道の反対側で見つけたという少年たちに見返りをせびられてしまいました。岩のドームは素晴らしいモザイクタイルのモスクでしたが、残念ながらイスラム教徒でないため入れませんでした。
 ホロコーストミュージアムは膨大な資料を展示していました。後に記録することへの執念のようなものも感じました。もちろん非人道的なことなのですが、街を歩いた後に見ますと戦争だけでなく宗教の影響も大きいのでは、とも考えてしまいます。
 5人でパレスチナのラマッラーにも出かけ、日本国政府代表事務所も訪ねました。日本政府はパレスチナを国として認めていると言うことですが、駐在されている方々は「我々はイスラエル、パレスチナ両方を見てやっていかないと、時として配慮を欠くことになる。」とおっしゃっていました。ラマッラーは、アラファト議長のお墓は静かなたたずまいでしたが、街は賑やかで活気にあふれていました。政情不安や治安を心配しましたが、平和そのものでアラビックコーヒーをゆっくり味わいました。
 私たちは地方都市である盛岡の中心部で事業を営んでおりますので、海外に出かけたときはなるべく多様な交通機関を使い、観光地以外の街歩きをして参考にするように心がけております。なので今回は参加者の皆さんには新市街や、ショッピングセンター、ライブの聴ける隠れ家のようなレストランなどに快くつきあっていただきました。2011年にできたLRTは単純な1路線ですが、使いやすく、旧市街、新市街もアクセスしながら走ります。新市街の雰囲気は別世界で夜遅くも人がのんびり歩いていました。ストリートミュージシャンや大道芸の人たちがいて、しかも演奏のレベルが高かったです。ヨーロッパではそういう人たちが減っているのでうれしかったです。また綺麗なウエイトレスがいるレストランでなぜかおいしい枝豆が出てきてみんな盛り上がりました。最後にイスラエルの写真家集団の女性に会うことができてうれしかったです。とても感じのよい方で、いつか彼らの撮ったパレスチナやガザの写真展を開くことができたらいいと思いました。
 トルコ、イスタンブールは私たちにとって二度目のせいか、街並みを見て本当にほっとしました。夜に色とりどりの噴水越しに眺めるブルーモスクは本当に素敵です。日本語で話しかけてきて、日本人を奥さんにしている人が多いのにびっくりしました。
 トピカピ宮殿では3万人分とも言われる食事を作っていた台所や中国の明、清時代の陶器類などを見学しましたが、残された食器がみんなとてもピカピカなのです。手仕事の国で手入れがいいのでしょうか?オスマン帝国はウイーンまで広がる大きな国でした。ガイドさんや中山先生によると、何とコーヒーは15世紀にイエメンからトルコに入り、その後、16世紀にウィーンを包囲したトルコ人によってヨーロッパに入った。だからウイーンにコーヒーを持ち込んだのはトルコということになります。17世紀にロンドンに開店したコーヒー・ハウスでは船の荷入れの情報がやり取りされ、そこから新聞や海上保険が生まれたという話も出ました。それだけでなく、世界で初めてのバブルの崩壊と言われれる「チューリップ恐慌」の原因となったオランダでチューリップが流行したのもトルコの影響だと言うことでした。ピザだってアラビア半島の方から伝わったと言うことです。世界観が変わる話です。ところで自分たちが今まで見た感じ、ウイーンやリュブリャナ(スロベニア)、ザグレブ(クロアチア)などにはオスマン帝国の痕跡をほとんど見ることはできないのですが、サラエボ(ボスニア)などにはあるのが興味深いところです。トプカピの学芸員さんとランチの機会も作っていただきました。86カラットのスルタンのダイヤを始め、貴重なものはいつでもイスタンブールにおいて観光客がきちんと見られるようにしたい、と博物館の展示に関する方向性を語ってくれました。
 二人でツアーを抜けて女性雑誌にも登場するモードとアートの発信地、ニシャンタシュにも行ってみました。ドレス屋さんがとても多くて、トルコはレディスの国内ブランドがとても多いと感じます。素敵なカフェもたくさんあって旧市街まで歩いて戻ってきてしまいました。
 今回トルコではみんなに旧市街でお店を展開している友人に会ってもらい、ブルーモスクのすぐ近くの街のど真ん中の店の上でバーベキューを体験してもらいました。鶏を焼いたものは味も塩麹っぽく、ラムも癖がなくおいしいものでした。友人はイスラムの考え方もベースに実直に商売をし、毎週一族の絆を深めるために集まっていると言います。トルコは岩手同様丁寧な手仕事のものが多いのですが、生活の欧米化、女性のキャリアアップ化でその技を継ぐ人がとても減っているという話でした。彼のお母さんが編んだオヤ(伝統工芸の一種で可憐な縁飾り)の数々も本当に美しく、オヤにはカギ編み、シャトル、一本の針で作るものがあるそうですが、中でもシャトルのもの(メキッキオヤ)は、タディングレースとしてヨーロッパに伝わったのではないか、とカミさんは想像を巡らし、学芸員さんもその可能性があると賛同してくれました。
 スタディツアー後に女性教授夫妻のお宅にお世話になりました。イスタンブールのだいぶ郊外にある別荘に行くまでに、都市がどんどん膨張していく様子を感じることができました。彼女はイスラム教徒でありながら結構批判的で、「私たちは中国と日本人のハードワーキングを尊敬する。もしトルコがイスラムの国じゃなかったらあなたたちのようになったのに。イスラムだってことはすごいハンディキャップなの。」と前述の友人とは全く異なる考えを示してくれました。トルコも災害の多い国ですが、これは運命だ、神が決めたことなのだ、で片付けてしまうからだと言います。フランスではイスラムがある人たちの心をとらえ、あっという間に信者が700万人以上に増えたこと、また今ヨーロッパで大問題となっているシリア難民のことも先取りして話してくれました。
 安藤くんとは大学のゼミで一緒で、25年来の友人です。2011年の津波の10日後に被災地に住む彼を訪ね、3m以上積み上がったがれきの中をともに歩いたとき、このような日が来ることを大学時代は想像もしませんでした。そして今回4年経って、中東の、ここを歩けば世界で起きている問題がわかるというような景色をともに眺めることができたことに幸せを感じました。彼には連れてきてもらってありがとう、と言ってもらいました。中山先生はいつも穏やかでおかげでリラックスして旅を続けることができました。事情や背景がわかりやすく、たぶん一生忘れないだろう、という感じの解説の数々でした。学生の雅晴さんには倍近く年齢が違う人たちの中に入って過ごしてもらいました。旅の最後にライトアップされたブルーモスクと路面電車をバックに僕らに深々と頭を下げてさわやかに去って行った姿が印象的でした。自分も20代半ばから海外で見たものが自分の仕事や考え方を大きく変えていきましたが、彼が今回のツアーをきっかけにこれからの日本や地域をよりよくしていく人材になっていかれることを願ってやみません。今回は体の調子がともにイマイチであまり話をしなかったので感想はカミさんが書いたものに加筆する形をとりました。最後にトニー高橋さんとアメガジャパンさんのサポートに厚くお礼申し上げます。

(三田 林太郎)

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